自 己 紹 介

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今の私に至るまで

小学校に上がるとおてんばになった私は、外遊びが好きな女の子でした。
スポーツが得意で中学で運動部に入るも、膝を痛め、続けたら歩けなくなると言われ、泣く泣く合唱部に(もちろん歌は大好きでしたが)。
高校では背骨を痛め、さらしを巻いて通ったのを覚えています。めげずに大学ではバドミントンをやりましたが、腰痛と坐骨神経痛に阻まれ、途中でリタイア。日常生活も厳しくなり、足に包帯を巻きながらの就職活動でした。

社会人になり、仕事に燃えていましたが、身体の状態は悪くなる一方で、治療に通いながらでは間に合わず、痛み止めも効かずに眠れなくなり、治療に専念するため退職を余儀なくされました。
整形外科を渡り歩きましたが、これ以上治す術がなく、挙句の果てには心療内科と言われました。
何とか普通に日常生活を送れるようにならなければ・・とやっとの思いで骨盤調整(骨格矯正)の治療を探し当てました。

原因は、生まれながらの骨格の問題から、生理湾曲が形成されずに負担が蓄積された末のことでした。
昔からあちこち症状が絶えなかったのは、この為だったのかと納得。思い起こせば、何もないところでよく転んでいたそうなので、すでに骨盤はズレていたのですね。
人は誰でも、骨盤が開閉して一日のリズムがあるのですが(妊婦さんが出産出来るのはまさにこのお陰で産道が開くから)、私はその要となる仙腸関節が、癒着し全く動かない状態でした。
土台がガタガタの為に、無理をして骨格を支えている体中の筋肉はひきつれ、萎縮してカチカチ、血管や神経は圧迫され、正常な血液循環は阻害されていました。頸椎のズレによって視界も二重に見え、どん底の状態でした。

回復には、悪くなった年数かかる(生まれてから・涙)と覚悟しての闘病生活が始まりました。治療所と我が家の往復をくり返すだけの毎日。
家ではひたすら、ゴムバンドを頭に腰に足の先まで、きつく巻いては外すの繰り返しでした(強制的に血流を促す為)。
毎日の身体中の痛みに、ある朝、また辛いだけの一日が始まるのか・・このまま目覚めずにいれたら(死ねたなら)楽なのに・・と心底思いました。何も出来ず、治療費ばかりが嵩み、自分は負担になっているのだからと。
そして、そんな自分にも傷つきました。自殺なんて人生で一度も考えたことは無かったので。
でもやはり、そんなことをしたら家族を悲しませるだけだし、何より自分自身が生きて行きたい!との思いの方が強く助かりました。
それからは、「私の仕事は身体を治すことだ」と運命を受け入れ、頑張りました。お庭で育てるお花たちが私の唯一の慰めでした。

そんな暗闇の中で、楽しみの時間をと、ケーキ作りを習い始めました。心の中では、いつか自宅で仕事に出来るためにと願って。
卵とお粉、お砂糖と・・それだけの材料で夢の世界が出来上がるのです!文字通り何も出来ない日々だったので、すごく感動し満たされました。
帰ると倒れ込んでいたので、治療の先生にはだいぶ後まで内緒で通いました。
1つケーキが仕上がる度に、ワクワク本当に嬉しくて、悲しみで潰れたままの心が、活き活きと蘇ったのを覚えています。

そしてついに1999年秋、ケーキ教室をオープン☆
しかし、ちょうどその頃ガンの宣告、半年後には手術が待ち受けていたのです。
やっとの思いでここまで来たのに、しかもとても大事な口の中・・
転移による死の恐怖に人として話せなくなる恐怖、ケーキの仕事を奪われてしまう不安とに苛まれ、
今の私なら間違いなく、休んでゆったりすべきとアドバイスしますが、あの頃はガンと闘うべく、頑張ることでしか気持ちの救いようがありませんでした。

お教室は、たくさんの温かい生徒さん達に恵まれて、とても楽しく充実の日々でした。
数え切れない回数焼いているのに、オーブンの中でスポンジが膨らんでくると、本当に可愛くて何度でもわくわくしました。
お誕生日とクリスマスには販売もしていたので、毎年楽しみにして下さる方が多く、腕の見せ所!へとへとになりつつも嬉しかったです。お教室で生徒さんが喜んでくれる→今度はご自分で作って家族や恋人、職場の方々に喜んでもらう、そんな繰り返しが幸せでした。
ケーキ作りは私の生きがいそのものでした。

2006年に入り、いつもとは違う痛みが手の関節、そして足にも現れました。
腱鞘炎と言われるも、何かが違うのは本能的に分かります。かなりキツかったのですが、ここで止めたら2度とケーキは出来ないと感じていたので、限界まで引き延ばしてしまいました。夏のお教室が最後でした。
結局、何か所目かの病院で、膠原病によるリウマチ性疾患だと告げられました。
先生の対応は「お気の毒に」。自分も、治らない病気という認識があったので、ガンより怖い病気はもう無いと思っていたのにまだあったのか・・とショックで声も出ませんでした。

ゲームでクリアすればまた次の画面に進める、私の人生ってそんな感じ・・・。

途方に暮れました。
病院ではステロイドなど薬漬けです。
本当は、免疫が疲弊しすぎて発症しているのに、症状だけ見て免疫抑制剤を飲み続ける。副作用のために更に薬をいくつも追加する。
怖いこと・・これでは自分の身体は機能しなくなってしまいます。まだ子供も産みたかったので、何とかしたかったのです。
表舞台からは引っ込み、静かにひっそりと暮らす・・・病院でも本でもそれが主流の考えでした。

何か他に方法があるのではないか、あるはずだ、とネットで必死に検索しました。
指の痛みは、下着をはくにも引き上げられない、お箸やお椀を持つのも辛い、キャンディの包み紙を開くのさえ痛い・・という酷いものでした。そして腹部の腫れ。

中国鍼、気功のはずが実は怪しい宗教、などを経て、ついに辿り着きました。「AST気功」。
この理論と実績に、もうここしかないと藁にもすがる思いで予約をしました。
初めての施術で反応が強く出て、辛いけれどそれがまた効いてる証だと信じ、通うことになりました。

アロマが身近になったのはこの時です。
次から次へと病魔に襲われ、いい加減、精神的にもおかしくなってしまうのではないかと、本気で心配で、毎晩お風呂で使っていました。優雅な側面は無かったけれど、ちょっと心がほどけた時間でした。

時間はかかりましたが、徐々に痛みは和らぎ、包丁が使えるようになった時には涙が出ました。ぬか床を混ぜられて喜ぶ、そんな日々でした。

膠原病はAST気功の中で、最も期間を要するので、諦めてしまう人もいます。
治療と並行して、少しでも早くよくなるよう私も自己治療をする為に、気功の研修会に参加するようになりました。身体の痛みも、ずい分良くはなったものの、骨盤調整での限界もあり、もっと楽になる方法を探していたので、その意味においても私に必要なものでした。

研修を積んでからは、親戚の治療へと通いました。
脳梗塞の後遺症で身体のふらつきがあり、片脚は岩のように重く、歩を進めるのが難しい状態の方でした。
発症から6年も経過しており、かなり厳しいと上の先生にも言われていたので、内心祈るような気持ちでしたが、それが、回数を重ねるうちに、足首や膝が持ち上がるようになり、筋肉も軽くなりました。表情が明るくなられ、外出もするようになり、週に3日も独りでお風呂へ通えるようになったのです!
人と接する機会が増え、本当に良かったと思いました。

この治療経験と、自分自身の病気の回復から、気功施術の素晴らしさを身をもって体験し、本当にすごいと感じました。私は気功師にならねば!それが使命だ、と思いました。

ただ、人を癒すのは治療だけではありません。
心をやさしく包むものが欲しいと、アロマテラピーも並行して勉強し始めました。まだ患者であった私にとって、病気治療のみを仕事としていくのは精神的に厳しいと感じていたのも事実です。アロマの香りは、私にとっても嬉しいものなのです☆
解剖学などを本格的に学び、人体の不思議には感銘を受けるばかり。
施術のレッスンに通っていた当時はまだ手の状態が辛く、やはり到底仕事には無理・・・と落ち込みましたが、諦めずにいて良かったです。
トリートメントにお迎え出来る人数に限りはございますが、その都度、大切に施術させて頂いています。


このような変遷を辿り、現在に至っています。
あまりの長文、最後まで読んで下さって本当にありがとうございます。

思えば、手を使って何かをする(楽器なども)ことが大好きだったので、使えなくなった時のショックは言い知れぬものでした。
でもまたこの手で仕事をするようになれたということに、感慨もひとしおです。
骨盤調整のI先生、H先生、癌研のN先生には、とても感謝しており、その仕事につきたいとの思いがありました。ただ、かなりの体力と頭脳が必要で(笑)、残念ながら生まれ変わったら・・と考えていました。
その私が、AST気功にめぐり会い、師範のS先生のお陰で気功師となり、少しでも辛い思いをしている方々のお役に立てることを、本当に有難く思います。

「これまでの道のりがあって良かった。」
などとそう簡単には言えません。人生は本当に苦しいものでした。
でも、これら全ての経験は、敢えて私をここまで導いてくれる為のものであったと、心から思います。
ぎりぎりのところで救ってくれる何か大きな力に、また、その都度あきらめずに治療法を探し出せた自分にも、感謝しています。

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